岡田 昌
1961.9.25 - 2008.12.9


岡田昌告別式 瑞生からお父さんへ
友部正人 岡田昌に捧ぐ
友部正人 岡田昌に捧ぐ(2)
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ふじっこ日記
ありがとうのうた

ありがとうのうたを口ずさんでいたね。その時まで。

大好きなお日様の下
お散歩する時にしていたみたいな
オリジナルなハミングで。

ありがとうのうたを口ずさんでいるよ。その時まで。

きっとその頃には
あなたのまねをしなくても
うたえているよね
私のオリジナルのハミング。

いつだって口ずさめるよ
あなたのハミング。
誰だって口ずさめるよ。
オリジナルのハミング。

ありがとうのうたは
あなたのうた

ありがとうのうたは
やさしいうた

ありがとうのうたは
すべてのうた

ありがとうのうたを今日もくちずさんで
お日様にあいさつしにいこうか。

Fujicco



「ことづて」

頭も体も疲れきっているのに、昨夜はどうしてもうまく寝付けなかった。

明け方になりようやく少しうとうとし、閉じた目を開けると、もう仕事に出かけなければいけない時間になっていた。

夜降った雨はいつのまにかあがり、今朝の空はきれいにすみずみまで晴れわたっている。まるで、もう冬は過ぎ去り春がやってきたような、そんな新しい一日のはじまりだった。

しかし病室を訪ねれば、すっかり片づけられてしまった無機質なその部屋には、誰も寝ていない真っ白なシーツが朝の陽射しに浮かび上がり、やはり昨夜のうちに彼が旅立ってしまったことを静かに告げていた。

いや、正しく説明すれば、僕はむしろ自分だけが深い井戸の底に取り残されたようなそんな悲しみに包まれていたのだ。これはひょっとすると僕に対する何かの罰なのではないか? どこかで知らず知らずのうちに犯してはいけない間違いを僕はしてしまっていたのではないだろうか? そんな不安が胸をざわつかせる。

そんな感傷を断ち切るように唐突に背後から声をかけられた。我に返って振り向くとそこにひとりの掃除婦のおばさんが立っていた。

「あの、先生、病室に昨日までみえた患者さんの忘れ物です」

彼女が差し出したのは書きつけられた半紙。それは、いつだったかずいぶん前に入院中の彼が書いたものだ。おばさんからその半紙を受け取り、カートを押して立ち去っていく彼女の姿を見送ってから、渡されたその半紙に目を落とした。

読むにしたがい、半紙を持つ手の指先から、その文字を追う目のあたりから、そしてつぶやくようにして声にだして文字を読む口元から、何かしら温かいものが自分の中に広がり、体全体を満たしていくのを感じる。読み終えた時、気がつけば僕は先ほどまで自分を支配しようとしていた孤独感からすっかり解放されていた。

「みなが同じ喜びの道を歩んでいけるように。
心はどんな線引きもせず未来へ、ただ未来へ続く祈りの静かな形でいいんだ。
病気よ来い!苦労よ来い!仲間もたくさん集まってるぜい。  まさる」

ああ、あの頃すでに彼は時間を越えて存在する術を身につけつつあったのだ。僕と同じように、今それぞれの場所で「昨日」という日からぎこちなく「今日」という日を不安げに迎えている者たちのために、あの日の彼は「ことづて」を書き記していたのだ。

彼から直接ではなくて、掃除婦のおばさんその本人には全く自覚させることなく、彼女を素敵な、時間を越えた郵便配達婦に変身させ、偶然をよそおい僕に届けるなんて!! 本当になかなかやってくれる。

そしてもちろん彼はこの「ことづて」を受け取った僕が、それを僕個人に宛てたものではなく、みんなに宛てたものであることに気づくことも計算済みなのだろう。掌の上で転がされている感じがするのはちょっと悔しいけど…分かってます。これは今からこうしてみんなにちゃんと届けるから安心してください。

(2008年12月10日 JOY R)
お別れ‥ そして ありがとう。

只今
ふじっこさんから情報が来ました。

友人の為に
今までマサルさんの意識が失わないように
薬もあまり使わずここまで来ましたが
もう限界が来たらしく
今、薬の量を増やすことになりました。

これでマサルさんの意識は
深く深く深海に沈むように
我々の言葉も届かないところに行く。
お別れの時が来ました。

しかしそばに居てあげましょうね。

僕は昔、大切な人を失くしてから

千と千尋の神隠し 主題歌 - 「いつも何度でも」や
「千の風になって」など

いまだにまともに聞けません。

でもしかし

僕等は、マサルさんが光になるのを
見届ける時が来ました。

マサルさんを行かしたくないですが‥
手放す時が来たようです。

大きな存在を失うようで恐いですが
彼の旅たちをみんなで見届けましょう。

僕も夕方に行きます。


今日は夕方から
たくさん電話が鳴りメールもたくさん来る。
そう‥

今日、この数年間、共に活動してきた
三重県亀山市 月の庭の岡田昌のこと
歌舞伎昌三さんのもとに行った。

あと数時間でお別れのよう‥

僕は手を摩り握り締めて
泣くのをこらえ、最後まで見届けたいと思う。

かほりさんが笑顔で
マサルさんの手を握る。

そうなんですよね。

人間、こうゆうことなんですよ。
いつか僕等も‥

幸せな波動が満ちる病室。

夜なのにたくさんの仲間。
みんな笑顔でマサルさんを見守る。

かほりさんもふじっこさんも
来てくれた友人に笑顔で迎える。
お二人も、すごくがんばってる。
素晴らしいほど‥ありがとう!感謝。

誰一人、悲しい顔してませんが
その方がいい。

受け止めるということ

最後にマサルさんに会ういうこと

それは、自分の為にでもある。

いままで長い闘病生活
よくがんばってきたなあ‥マサルさん。

ほんまにありがとう。

マサルさんのおかげで僕もたくさんの仲間に出会えた。

いろんな作品もできた。たくさんライブできた。
御飯食べたり、ツアーに出たり
音楽の話や映画の話やおもしろい話もたくさんしたなあ‥

もう終わりなんや‥

でもしっかりしないとね。
最後まで見守ります。

2008年12月09日・えいすけ

追悼! 歌舞伎昌三!
中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン/モノノケ・サミット)

息を引き取ったマサル(歌舞伎昌三)の顔は笑顔だった!
2004年秋に2年の余命宣告を受けてからのマサルは、万事がそんな調子で、彼の身体を気遣う周囲が唖然とする程、肯定ヴァイヴと笑顔を振りまき続けた。生きること、すなわち、宴・祭りであることを、マサルは最後の最後までその肉体をもってして実証し続けたのだ。
2005年、ソウル・フラワーの伊丹英子らが中心となって、「震災十年目神戸再集結」ということで、神戸・長田神社にて『つづらおりの宴』なる祭りを開催。そこにマサルはいた。三重県の亀山から「これだけは絶対来なあかんと思ったんや~」とか言いながら。リクオと山口(洋)が「満月の夕」を演奏している時、その演奏をBGMに、楽屋入り口付近にて二人で立ち話(二人とも、ちゃんとライヴ、観てないやん!)。その時、ややいつもより深刻な風情のマサルから、初めて「末期癌・余命宣告」の話を聞いたのであった。
マサルとの出会いは、そんなに古い話ではない。2001年秋、ヤポネシアン・ボールズ・ファンデーションの名古屋公演後の楽屋。山口洋の友人として、マサルの経営するオーガニック・レストラン『月の庭』を俺に手渡しながらの初対面であった。
その後は、早かった。共通の活動履歴(反原発運動、先住民運動etc)もさることながら、性格に共通の要素を感じ取り合った俺とマサルは、まるで旧友かのように、名古屋・四日市・亀山などなど、行事あるごとに酒を酌み交わし、(当然のことながら)映画の話題や時事に花を咲かせたのであった(マサルは、俺より数年歳上なのだが、「日本男児」には珍しく、そういったことを全く感じさせないのだ)。
余命宣告後、ひょんな思いつきでソウル・フラワー・ユニオンの「星降る島」(『ロロサエ・モナムール』収録。マサルも2003年に東ティモールへ行っている)にコーラス参加してもらったあたりからか、関係は密になってゆく。マサルが舞踏を始めたのだ。名古屋周辺で行なわれるソウル・フラワー・ユニオン、モノノケ・サミットの(ほぼ)全ライヴに「白塗りの舞踏家」として参加することになり、大阪や神戸、東京のライヴも時間の許す限り、頼みもしないのに(笑)、マサルは当たり前のようにライヴ前の楽屋で白塗りになるのであった(ライヴ当日の午後、「今から行くわ。踊らせてな~」というパターンも多かった)。
正直な話、今から振り返ると、当初マサルをソウル・フラワーのステージに上げることは、我々の中で、「彼の身体に良かれ」との判断によるところが大きかったように思う。モノノケ・サミットの、寄せ場や障害者イベントのライヴでは、以前から当たり前のように「何者かがステージで舞う」という光景があった、というのもある。深い考えがあった訳ではないのだ。しかし、共演数を重ねる内に、彼の舞いに、確実に変化が起こり始めたのだ。次第に、命を伝達する意思漲るその舞いは、ソウル・フラワーのライヴにかかせないものになってゆく。DVD『ライヴ辺野古』リリースは、実のところ、マサルの舞いを作品として刻印したい、ということも俺の頭中にはあったのだ。
多くの人に愛されたマサル。その人となりは、有志が立ち上げた彼の公式サイトやミクシィのコミュニティ上にある、素晴らしい友人たちの言葉・吐露に凝縮されている。くどくどここで拙文を展開する気はない。ただ、それでもただ一つ、ここで書いておきたいのは、筑紫哲也さんが亡くなった折りに感じた事柄にも共通するのだが、マサルが笑いながら苦しみながら手渡そうとした「バトン」を、生き残った我々はしっかりと受け取ったのか、ということ。筑紫さん同様、マサルがはからずしもメッセージし続けた「広大さ」、安易な「寛容」ではない、勿論諸行無常の境地でもない、むしろ現実を直視し厳しく拘り続けることによってでしか立ち上ってはこないであろうその「広大さ」を、彼のお陰で「繋がった」我々がしかと胸に受け止め、またそこから学び続けること。そこにこそ俺は関心があるのだ。人は、日常の些事の中で、おうおうにして「狭く」なるものだ。これから寂しくはなるが、歌舞伎昌三・岡田マサルは、そういった形で我々の胸の内で生き続けるのではないか。また、そうでないと、肉体の、精神の、その全てを曝け出し見せてくれた彼の生き様に、応えることにならないのではないか。
そんなことがら諸々に思いを巡らせながら、今日一日はしばし音楽から離れ、マサルも愛してくれた一歳半になる息子「ゆめ」と、現在、積み木遊び敢行中である。

マサル! 来年2月6日『月の庭』でモノノケ・ サミットやで~。

追記 1:昨日(12月9日)の神戸VARITでのソウル・フラワー・ユニオンのライヴで、「満月の夕」演奏時、実況中継で携帯電話を病室に繋ぎ、歌舞伎昌三と最後の共演を果たした。息を引き取ったのが23時23分だから、その二時間前ぐらいか。病室にいる環音(わをん)の広田奈津子嬢に電話を繋ぎ、病床のマサルに聴かせてもらったのだが、驚くべきことに、脱水状態であるにも関わらず涙を流し、「ヤサホーヤ」の瞬間、唇の形が「ヤサホーヤ」になった、とのこと。さすが、マサル! 今も「ジョン・レノンの命日と同じ日(日本時間)を選んだんやで~」とか言ってそうやね。

追記 2:マサルを看取った主治医・来田亮二さんがミクシィ「岡田昌」トピックに書いた文章の中に、マサルが毛筆で書き残した一枚の半紙の話があった。その半紙には、こうある。「みなが同じ喜びの道を歩んでいけるように。心はどんな線引きもせず未来へ、ただ未来へ続く祈りの静かな形でいいんだ。病気よ来い! 苦労よ来い! 仲間もたくさん集まってるぜい。まさる」

(2008年12月10日記)

光になって

夕べ、病院にかけつけたotoちゃんから電話があり、まさるっちが手で踊ってるよ、音にならない言葉でありがとうって言ってるよ、と伝えてくれました。
私はすぐ、奄美の島唄ライブでこれから三線をひいて歌う、ナラさんに電話して、まさるっちに歌を心で送ってほしいと伝えました。
私は、まさるっちとの今まで過ごした時間をあんなこともこんなこともあったな~と走馬灯のように思い出していました。そして、まさるっちが光の方へ向かって光そのものになって、ひとつに帰ってゆくようにお祈りしました。
秋に最後に話した時、まさるっちの痛みが、地球の痛みとリンクしている気がする、と言ったら、おれもそう感じている、と涙を流していました。でも、これから地球は、愛と調和の星にあらたに生まれ変わるから、まさるっちも其の痛みを超えてゆけるね、と。
沢山の人たちに楽しかった時間を残して、まさるっちは彼岸の世界に旅立ちました。
この世界での肉体はなくなっても、まさるっちのスピリットは、今、ここに、ずっと、あるよ。
身体がなくなった分、これからはますます自由奔放に、あちこちのライブやマツリで、歌舞伎昌三が踊っている事でしょう。

まさるさん、愛と勇気と幸せをありがとう。

サヨコ

昌さんへの伝言

9月の奇跡のライブに行きました。
あのライブの後、感動とともに昌さんへのエールを送りたかったのですが、間に合わず、残念です。
今は、ご冥福をお祈りしております。
私は、「歌舞伎昌三」である昌さんしか知りませんが、いつか、私の思いを、奥様から昌さんに伝えてもらえたらなぁ、と思っています。

愛西市在住 4月に奥様と同じ気持ちを経験した34歳より

まさるさん、さようなら。

毎日、ふじっこさんの「マサル部屋日誌」を見て心配していました。お店に行っても、お母さんはいつもにこにこしてみえるので、なおさら心が痛みました。
まさるさんとは、まだギャラリーも月の庭もできていない頃、津に軽トラで商品を積んでまわって見えるときに友人の家で初めてお会いしました。それからまさるさんの考え方や生き方が私の心にすっと入ってきて、弟(年齢的には息子?)のような気がしていました。
月の庭の10周年には母の介護のために残念ながら参加できませんでしたが、15周年にはぜひと言っていたのに…。
もう、まさるさんとはお会いできないのですね。
心からお悔やみ申し上げます。  

津の陽子より


旧友の岡田昌が昨日亡くなった。
前の日に、もう長くない、多分あと1日か2日という情報は得ていたが、仕事の打合せや約束が詰まっていて どうしてもその日は行くことができなかった。
昌は、20代の前半を下北沢ですごした仲間だ。
当時を振り返ると、「下北沢が一番面白かった時代やで」と昌も言っていた。
昌は、とあるロックバーのカウンターの中にいて、当時もその人間的魅力でつぶれかけたロックバーを連日満員の客(来た人はすでに友人となる)で埋めつくしていた。
と言っても、10人も入れば一杯になってしまうカウンターだけの店だが。
時には折り重なるように15人位入っていた。
朝までよく飲んだ。
窓から見える道行く人を、一緒に飲みましょうと誘い込んだこともあった(女の子とか)。
当時80年代前半、時代は丁度バブルに入る頃で、主流の人々はよりハイセンスでリッチな生活を絶対的なものと拝み、服装なんかもきりっと刈り上げた
アイビー風のファッションが巾を利かせていたと思う。
とにかくそんな時代の風潮が大嫌いだった。
なんで、あと10年早く生まれなかったんだと思ったりもした。
70年代のロックや精神は肩身の狭い思いをしていたのだ。
まだ、そんなことを引きずってんの、だせー、とか白い目で見られていたと思う。
(その当時は、ベルボトムのジーンズは非常にはずかしいものとされていた)
しかし、70年代のロックや精神に価値を見いだしていた我々は、この店に集結したのだ。
あのような店は東京中さがしてもなかったと思うような奇跡の店だった。
そして、連日連夜、反骨的、時代に逆らう宴会を朝まで繰り広げていたのである。
みんな大学を中退したりなんかした。
蜜のようなとろける時間もすごした。ストーンズやボブディランや頭脳警察やモッズなどのレコードがよくかかった。
その後、昌は店をやめ三重に帰った。
カウンターの中の人も変わり客も徐々に変わり、店はただの堕落した吹き溜まりのような場所に変わっていった。
そして、そこにはもういかなくなった。
三重に帰った昌とも音信不通になってしまい長い月日が流れた。

去年の6月ごろだったと思うが、昌が三重で月の庭というスポットを開いて好評を博していることは聞いていたので、(ガンになったことも聞いていた)どんな人が出演しているのだろうとホームページを見てみた。
たまたま、その日出演していたのがAKIRAさんで「すごい出会いが待ってるよ~」という昌のキャッチコピーと「どうどうと間違えろ、胸を張って傷つけ」というAKIRAさんのキャッチコピーにひられリンクしてあった
akira maniaというホームページを見たのが AKIRA さんと知り合うきっかけだった。
その後 AKIRA ライブに通うようになり、今年の夏、月の庭で 昌に祈りを捧げる AKIRA祈りライブが行なわれたので、それに参加し、昌と再会を果たしたのだ。

昌が亡くなって、やはり悲しい。
ブログなどを見ると、沢山の人に逆に勇気を与え、ものすごく幸せな最期の時だったと聞いている。
最期の瞬間は 拍手喝采が巻き起こったとも聞いている。
見事な見事な死にっぷり と言う人もいる。
しかし、悲しいものは悲しい。
もう、今生では会えないんだから、あたりまえだ。
昌だって、聖人君主ではない。生身の人間だ。
苦悩も山ほどあったはずだ。
オレにはまだまだやることが沢山有ると言っていた。
でも、やっぱりそういうことも最期は浄化できたのかな。
だとしても、たやすいことではなかったと思う。

この悲しみに決着をつけるために、あすはお通夜に三重に向かいます。

歌舞伎昌三(岡田マサル)、ありがとう!

みなさんもご存知、名古屋や関西や辺野古のソウル・フラワーのライヴで、舞踏家「歌舞伎昌三」としてステージに立ち続けた「岡田マサル」君が、12月9日23時23分、素晴らしい仲間たちにかこまれながら、その豊穣な人生を閉じ、永い眠りにつきました。享年47歳。

語るべき言葉、語り継ぐべき言葉は山のようにあるのですが、あまりに多くのものを貰い、学んだこの数年を、今、一口で表現することなど出来ようもありません。

この場では、報告にとどめますが、彼のことをあまり知らなかった、という人にも、末期癌・余命宣告されて4年、素晴らしい生き様を見せながら生き抜いた彼の、まさしく“謳い放った”“踊り放った”人生讃歌の一端に、今からでもいいから、是非とも、触れて欲しいと思います。

歌舞伎昌三(岡田マサル)は、これからも我々の胸の内で生き続けます。
バトンは受け取ったぞ!
マサル、ありがとう!!
次は、来年2月6日、亀山「月の庭」で!


中川敬(SFU)
http://www.breast.co.jp/cgi-bin/soulflower/houdanR2/houdan.cgi 

横浜は冷たい雨が降っています。
今、弟からまさるさんが亡くなった事、聞きました。
ずっと、まさるさんの事考えていました。
ボーボーと遠くで船の音がして、まさるさんが旅立ったのだと思いました。
長い間の痛みから、解放されたんですね。
沢山の友人と家族に囲まれて、息をひきとったんですね。
私もそばに行きたかった。
それは、私自身を納得させるため。
だって、まさるさんの存在はあまりのも大きすぎて、もう二度とまさるさんに会えない事が、
寂しくてならないのです。
今は、巨大な寂しさと、心から、まさるさんに出会えたことへの感謝の気持ちでいっぱいです。

まさるさん、ありがとう。

私も、死ぬまで、まさるさんみたいな大きな愛情を持って生きて行きたいと思います。

ありがとう。

中ムラサトコ

悲しいけど有り難う

一昨日知人から電話が入りマサル氏が危篤との事、覚悟はしてたけど、少しでも長く生きて欲しいのはもしかしたら私達のエゴだったのかもしれない、今はゆっくり休んでねって気持ちです。沢山の友人に見守られたそうです。 彼の生きざまだね。

私は事実上最後にお会いしたのは、病気を知り、舞踏の活動を知った2007年の7月11日吉祥寺曼荼羅だった。

彼に影響を受けた友人やパフォーマー、アーティスト、ミュージシャンは沢山いらしゃるだろうから皆の中に、新しいマサルさんが生まれた日なんだという気持ちがしました。

寂しさは後から、少しずつくるのかな?

ハタチ(丁度今の私の娘の頃に)一目惚れした。

あの時感じた予感は、本物だった。素晴らしい方でした。
ご冥福をお祈りいたします。

勇気貰った皆、頑張って生きて行こう。

追記 書き終えて日記送信したら涙が溢れました。

Onsa

30年ほど共に走ってきて…

 岡田昌がしんどいという。僕にとってヤツは「歌舞伎昌三」「月の庭オーナー」「舞踏家」…である前に、単なる「岡田昌」だ。
 出会いは高校2年の冬。友人を通じて、初めて彼とその友人に「喫茶店」なるものに連れられたのがきっかけ(当時の僕は、喫茶店は不良が溜まり場だと考えるほどウブな高校生)だった。そのころの昌は、ちょっとカッコいいけどボンヤリとした奴だった。
 高校3年になると、運命が始まる。二人はクラスが一緒になった。
 今でも忘れはしない。ゴールデンウィークに入る前日、ヤツは文化祭の出し物に映画を作りたいと言い出した。そんな計画を以前から小菅、萩原など当時の岡田の友人たちは話し合っていたらしい。そんなことは露知らない僕を、誘いに来た岡田らが空き教室で取り囲み、強引に映画プロジェクトに誘い込んだのだ。
 僕は1回目の校内模試でそこそこの成績だったのに気を良くして、なんとかそこそこの大学に潜り込めればと考えているごく普通の高校3年生だった。彼らが僕を誘ったのは、高2の文化祭で僕が映画の監督をしたからだが、実のところ、僕自身は映画のこともよくわからないままに、香盤表やらロケ地探しなど段取りをつけ、台本を書きあげるなど、「雑用」をこなしていたにすぎなかった。
 しかし、昌らはそんなこととは知らず、僕を映画好き思ったのか、仲間に加えノウハウを吐き出させようと…。結局、責任のない助監督ならと引き受けたのが、共に人生を歩むきっかけとなった。
 ヤツとはそれ以来、大学も一緒で、社会人としてもブラブラとテレビ番組も作り、悩み笑ってきた。
 お互いの人生が、今の場所にあるのは、お互いのおかげでお互いのせいだと思っている。
 ヤツは命を削っているとは思っていたが、こんなに早く病床に倒れるとは…。きっと僕の見えないところでイケナイことをしていた結果だろう。
 マダゲンキカ?
 マダゲンキカ?
 マダヤルコトヲノコシテイマス…。
ココシバラク二人で映画も芝居もイベントもコラボで作っていません。
 早く出て来い!
 今年中は忙しいから、来年にしてほしいけど…。

さんたろうより
Collaboration Stage
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